2011年03月31日
蘭契会と来島した文化人(1)

第1回夏期講座は大正12年8月に開催され、6名の講師の方が来島しました。まず3名を紹介します
入沢宗寿 教育の新傾向

入沢宗寿(いりさわ-むねとし 1885-1945)大正-昭和時代前期 の教育学者。神宮皇学館教授をへて昭和7年東京帝大教授。 欧米の体験教育を柱とする新教育運動を紹介。
片上伸 文学と社会の関係

片上伸(かたがみ のぶる、1884~1928)、日本の文芸評論家、ロシア文学者。片上天絃の名でも知られる。愛媛県出身で東京専門学校に入学。在学中は英文学を学んだが、当時の自然主義文学の勃興期に際して自然主義文学に傾倒し、卒業後は早稲田大学の教授として、英文学、ロシア文学を講義しながら、雑誌『早稲田文学』に自然主義を擁護する評論を多く発表した。
長瀬鳳輔 改造途上の世界現勢

長瀬鳳輔(ながせ-ほうすけ 1865-1926)明治-大正時代の教育者。アメリカ,のちドイツのベルリン大でまなぶ。帰国後,陸軍大学校,早大の教授を歴任。参謀本部編修官となる。大正11年国士舘学長。外交問題にくわしかった。
入沢宗寿 教育の新傾向
入沢宗寿(いりさわ-むねとし 1885-1945)大正-昭和時代前期 の教育学者。神宮皇学館教授をへて昭和7年東京帝大教授。 欧米の体験教育を柱とする新教育運動を紹介。
片上伸 文学と社会の関係
片上伸(かたがみ のぶる、1884~1928)、日本の文芸評論家、ロシア文学者。片上天絃の名でも知られる。愛媛県出身で東京専門学校に入学。在学中は英文学を学んだが、当時の自然主義文学の勃興期に際して自然主義文学に傾倒し、卒業後は早稲田大学の教授として、英文学、ロシア文学を講義しながら、雑誌『早稲田文学』に自然主義を擁護する評論を多く発表した。
長瀬鳳輔 改造途上の世界現勢
長瀬鳳輔(ながせ-ほうすけ 1865-1926)明治-大正時代の教育者。アメリカ,のちドイツのベルリン大でまなぶ。帰国後,陸軍大学校,早大の教授を歴任。参謀本部編修官となる。大正11年国士舘学長。外交問題にくわしかった。
2011年03月30日
島田の礎・蘭契会(6)文化講壇、夏期講座

大正10年から昭和7年までの11年間にわたり蘭契会が主催(堰東教育会との共催も)した文化講壇、夏期講座が島田で開催されました。講師は当時一線で活躍していた一流の専門学者や知識人、芸術家で、受講生は島田町内にとどまらず周りの町からも集まり400名ほどでした。


蘭契会が主催した文化活動は静岡県下で話題となり島田地区の近代化に大きな役割を果たしました。
文化講壇のスケジュール表(講師、講題、日時の一覧表)


明日から講演した文化人など具体的に紹介します。
蘭契会が主催した文化活動は静岡県下で話題となり島田地区の近代化に大きな役割を果たしました。
文化講壇のスケジュール表(講師、講題、日時の一覧表)
明日から講演した文化人など具体的に紹介します。
2011年03月29日
島田の礎・蘭契会(5)展覧会続き

第2回は大正13年1月、島田第1小学校講堂で開催されました。書道では比田井鴻、東洋画では大村西崖、西洋画では岸田劉生、写真では森芳太郎の作品が展示されました。これにあわせて4人の方の講演会も島田で実施されました。

比田井天来(ひだい てんらい、1872- 1939)は長野県出身の書道家。 「現代書道の父」と呼ばれる。
大村 西崖(おおむら せいがい、1868 - 1927)は富士市出身日本の美術史家・美術評論家。本名は、塩沢峰吉。1893年に東京美術学校彫刻科を卒業(第1回の卒業生であった)、母校である東京美術学校教授。彫刻、美術、美学、考古学、東洋史、東洋美術史を講じた。
森芳太郎( 1890~1947)雑誌「写真新報」の主筆。写真術、作画・印画法や写真化学の専門家。

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、1891 - 1929)は、大正~ 昭和初期の洋画家。 劉生自身も随筆『美の本体』ほか、日記など膨大な文章を残している。
昨日紹介した高田竹山(忠周)編纂の本
比田井天来(ひだい てんらい、1872- 1939)は長野県出身の書道家。 「現代書道の父」と呼ばれる。
大村 西崖(おおむら せいがい、1868 - 1927)は富士市出身日本の美術史家・美術評論家。本名は、塩沢峰吉。1893年に東京美術学校彫刻科を卒業(第1回の卒業生であった)、母校である東京美術学校教授。彫刻、美術、美学、考古学、東洋史、東洋美術史を講じた。
森芳太郎( 1890~1947)雑誌「写真新報」の主筆。写真術、作画・印画法や写真化学の専門家。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、1891 - 1929)は、大正~ 昭和初期の洋画家。 劉生自身も随筆『美の本体』ほか、日記など膨大な文章を残している。
昨日紹介した高田竹山(忠周)編纂の本
2011年03月28日
島田の礎・蘭契会(4)展覧会

蘭契会が主催した展覧会は「三美展覧会」と題して2回開催されました。「三美」とは書道、絵画、写真の3つの美術展ということです。
第1回は大正9年1月、当時の書道研究の第1人者である高田竹山(1861~1946)の「書体変遷の大変」と題する作品や荒浪煙がい(水神山に石碑あり)や置塩とう園(元島田町長、大井神社に石碑あり)など地元の文人の作品が展示されました。

展示を見学する人々

高田竹山(忠周)についてインターネットで調べてみました。西東書房という出版社から「五體字類」 高田竹山監修がでています。その宣伝文は”持ち運べる漢字の博物館 九十年にわたる書体字典の決定版。すべての人名用漢字、常用漢字の収載を実現。 群を抜く親文字数五千百六十字。 ● 本書は大正五年の初版以来、楷書、行書、草書、隷書、篆書の五体を一括収録した書体字典として定評を独占。”です。
第1回は大正9年1月、当時の書道研究の第1人者である高田竹山(1861~1946)の「書体変遷の大変」と題する作品や荒浪煙がい(水神山に石碑あり)や置塩とう園(元島田町長、大井神社に石碑あり)など地元の文人の作品が展示されました。
展示を見学する人々
高田竹山(忠周)についてインターネットで調べてみました。西東書房という出版社から「五體字類」 高田竹山監修がでています。その宣伝文は”持ち運べる漢字の博物館 九十年にわたる書体字典の決定版。すべての人名用漢字、常用漢字の収載を実現。 群を抜く親文字数五千百六十字。 ● 本書は大正五年の初版以来、楷書、行書、草書、隷書、篆書の五体を一括収録した書体字典として定評を独占。”です。
2011年03月27日
島田の礎・蘭契会(3)音楽活動続き

蘭契会が主催もしくは共催した6回の音楽会の残り3回は
大正11年7月、島田高等女学校講堂で「納涼音楽会」静岡楽友会管弦楽団出演
大正12年2月、島田高等女学校講堂で「大音楽会」多忠亮指揮、東洋音楽学校合唱管弦楽団50名出席
昭和6年4月「植村輝子独唱会」
音楽会の写真やちらし(博物館企画展、清水真一の軌跡より)
多忠亮(おおのただすけ、1895-1929)大正-昭和時代前期のバイオリニスト。ピアノの榊原直,チェロの平井保之とともに榊原トリオを結成。のち東京市民管弦楽団を指導。母校東京音楽学校(現東京芸大),東洋音楽学校の教授をつとめました。
竹久夢二の「宵待草」の詩に感動、これに曲を付けて1918年(大正7年)セノオ楽譜より出版、またたく間に日本中の心をつかみ一世を風靡、島田で公演したのはこの少し後の時期です。
家の近くで桜が咲き出しました。
大正11年7月、島田高等女学校講堂で「納涼音楽会」静岡楽友会管弦楽団出演
大正12年2月、島田高等女学校講堂で「大音楽会」多忠亮指揮、東洋音楽学校合唱管弦楽団50名出席
昭和6年4月「植村輝子独唱会」
音楽会の写真やちらし(博物館企画展、清水真一の軌跡より)
多忠亮(おおのただすけ、1895-1929)大正-昭和時代前期のバイオリニスト。ピアノの榊原直,チェロの平井保之とともに榊原トリオを結成。のち東京市民管弦楽団を指導。母校東京音楽学校(現東京芸大),東洋音楽学校の教授をつとめました。
竹久夢二の「宵待草」の詩に感動、これに曲を付けて1918年(大正7年)セノオ楽譜より出版、またたく間に日本中の心をつかみ一世を風靡、島田で公演したのはこの少し後の時期です。
家の近くで桜が咲き出しました。
2011年03月26日
島田の礎・蘭契会(2)音楽活動

当時蘭契会が主催もしくは共催した音楽会は6回ほど行われました。
大正8年10月4日「洋楽演奏会」静岡楽友会員出演、島田尋常高等小学校にて
大正10年11月4日「洋楽大演奏会」東洋音楽学校(現東京芸大)の学生35名出演
昭和7年9月27日「佐藤美子女史独唱会」ピアノ伴奏は高木東六氏、独唱会の前後、佐藤、高木さんが小夜の中山や朝顔の松などを見学した様子が清水真一さん撮影・現像した9.5mmパテイフィルム(佐藤美子女史を迎えて)に収められています。
当時の朝顔の松

9.5mmフィルム「佐藤美子女史を迎えて」より

佐藤美子(1903-1982)は昭和時代のメゾソプラノ歌手。昭和2年田谷力三らと「ヴォーカル・フォア」を結成。昭和3年パリに留学し,ネトケ-レーベに師事。帰国後,日本初演の「カルメン」などのオペラに出演しました。
高木東六(1904--2006)は作曲家、ピアノ演奏家、平成18年102歳で亡くなりました(90歳すぎても現役で活動)。昭和3年フランスに留学し,パリのスコラ-カントルムを卒業。パリをおとずれた山田耕筰にすすめられ,作曲家をこころざし、帰国後,クラシック,シャンソンを作曲,昭和25年唯一のポピュラー曲「水色のワルツ」が大ヒットしました。
大正8年10月4日「洋楽演奏会」静岡楽友会員出演、島田尋常高等小学校にて
大正10年11月4日「洋楽大演奏会」東洋音楽学校(現東京芸大)の学生35名出演
昭和7年9月27日「佐藤美子女史独唱会」ピアノ伴奏は高木東六氏、独唱会の前後、佐藤、高木さんが小夜の中山や朝顔の松などを見学した様子が清水真一さん撮影・現像した9.5mmパテイフィルム(佐藤美子女史を迎えて)に収められています。
当時の朝顔の松
9.5mmフィルム「佐藤美子女史を迎えて」より
佐藤美子(1903-1982)は昭和時代のメゾソプラノ歌手。昭和2年田谷力三らと「ヴォーカル・フォア」を結成。昭和3年パリに留学し,ネトケ-レーベに師事。帰国後,日本初演の「カルメン」などのオペラに出演しました。
高木東六(1904--2006)は作曲家、ピアノ演奏家、平成18年102歳で亡くなりました(90歳すぎても現役で活動)。昭和3年フランスに留学し,パリのスコラ-カントルムを卒業。パリをおとずれた山田耕筰にすすめられ,作曲家をこころざし、帰国後,クラシック,シャンソンを作曲,昭和25年唯一のポピュラー曲「水色のワルツ」が大ヒットしました。
2011年03月25日
文化都市島田の礎・蘭契会(1)

清水真一翁顕彰会のブログなのに筆者の私事ばかりですみません。今回から”清水真一さん”について2009年夏、島田市博物館で特別展を開催した時、博物館が出版した「清水真一の軌跡」をもとに紹介していきます。

明治時代後半になると地域の産業の発展や時代の進展に対応できる若い力が求められ地方に青年団体が組織されました。島田地域の市街地にできた青年団は新文化を吸収するため各種講演会、講習会を開催し、青年団の幹事有志が地域文化の高揚を目的に「蘭契会」を作りました。
蘭契会の文化活動は大正8年から昭和7年ごろまで13年間続きますが、この活動において中心的な役割を担ったのが清水真一さんでした。次回から具体的な活動内容を紹介します。
清水真一さん、山本拝石翁鉄筆碑(大津通公園)の横で、昭和56年撮影
明治時代後半になると地域の産業の発展や時代の進展に対応できる若い力が求められ地方に青年団体が組織されました。島田地域の市街地にできた青年団は新文化を吸収するため各種講演会、講習会を開催し、青年団の幹事有志が地域文化の高揚を目的に「蘭契会」を作りました。
蘭契会の文化活動は大正8年から昭和7年ごろまで13年間続きますが、この活動において中心的な役割を担ったのが清水真一さんでした。次回から具体的な活動内容を紹介します。
清水真一さん、山本拝石翁鉄筆碑(大津通公園)の横で、昭和56年撮影
2011年03月24日
デンマークの町・公園

デンマークに限らずヨーロッパの町というのは町の中心にも広い公園がそこかしこに、教会も必ずいくつかあります。また日本人には余分なスペースと思われる場所が多数ありました。公園にはのんびり散策している人がおり、池のまわりは早朝からランニングをする人をみかけました。のんびりというかあくせくしていません、子どもや赤ん坊をつれた母親をみかける機会も多い気がしました。島田でも公園が作られ、大井川マラソンコースが整備されるなどそれなりの場所がありますが、東洋と西洋の公園、まち作りの価値観の違い、対応の違いを実感させられました。
コペンハーゲンの市庁舎

町中の公園で遊ぶ子どもたち

王立植物園(ここも広い公園になっている)

ローゼンボー離宮

ローゼンボー離宮・衛兵の交代

オーデンセの駅前の公園
コペンハーゲンの市庁舎
町中の公園で遊ぶ子どもたち
王立植物園(ここも広い公園になっている)
ローゼンボー離宮
ローゼンボー離宮・衛兵の交代
オーデンセの駅前の公園
2011年03月23日
コペンハーゲンの天文台

デンマークの天文学者にティコ・ブラーエ(Tycho Brahe 1546-1601)という人がいます。彼は望遠鏡が発明される前、肉眼で天体観測をし膨大な記録を残しました。彼の観測データをもとにケプラー(1571~1630)は天体運動の重要な法則(ケプラーの法則といわれ、惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道を公転しているなど3つの法則からなる)を発見しました。
コペンハーゲン中央駅から徒歩で5分ほどの場所にティコ・ブラーエの名前のついたプラネタリウムがありましたが諸事情で入館できませんでした。
池沿いの半円形の建物


ローゼンボー離宮の近くにラウンド・タワー(円塔)があります。1642年に完成した建物で天文台、大学図書館、学生のための機能を持ち、天文台はヨーロッパ最古で1861年までコペンハーゲン大学が使っていました。塔の吹き抜けた中心部を209mの道程で7回半回転するらせん階段をのぼりきると地上34.8mの屋上の展望台にでます。ここからは四方八方にコペンハーゲンの町並みをみることができました。



左奥の小さな尖塔付近がロウゼンボー離宮
コペンハーゲン中央駅から徒歩で5分ほどの場所にティコ・ブラーエの名前のついたプラネタリウムがありましたが諸事情で入館できませんでした。
池沿いの半円形の建物
ローゼンボー離宮の近くにラウンド・タワー(円塔)があります。1642年に完成した建物で天文台、大学図書館、学生のための機能を持ち、天文台はヨーロッパ最古で1861年までコペンハーゲン大学が使っていました。塔の吹き抜けた中心部を209mの道程で7回半回転するらせん階段をのぼりきると地上34.8mの屋上の展望台にでます。ここからは四方八方にコペンハーゲンの町並みをみることができました。
左奥の小さな尖塔付近がロウゼンボー離宮
2011年03月22日
ハムレット由来のクロンボー城

2000年に世界遺産に登録されたクロンボー城はシェクスピアの戯曲「ハムレット」の舞台となったことで有名ときいていたので見学に出かけました。しかしハムレット関係の展示は1部屋くらいで、それ以外はフレデリク2世(16世紀)をメインとするデンマークの歴史や城内部の紹介、海外に進出した船・航海術の歴史の展示がていねいにされていました。
クロンボー城


城の内部


「ハムレット」のイベントのポスター

クロンボー城沿いの海の向こうはスウェーデン(フェリーが運航されています)

クロンボー城のあるヘルシンオアへはコペンハーゲンから電車で50分ほど
クロンボー城
城の内部
「ハムレット」のイベントのポスター
クロンボー城沿いの海の向こうはスウェーデン(フェリーが運航されています)
クロンボー城のあるヘルシンオアへはコペンハーゲンから電車で50分ほど