2011年10月31日
八ヶ岳の紅葉

30.31日信州に出かけました。1500m付近は紅葉で非常にきれいでした。
諏訪南インター付近からの八ヶ岳連峰(31日)

清里近く、周遊道路付近(天気が悪く、写真写りももう一歩ですが、30日)

麦草峠の茅野側、から松の紅葉(多くの落葉、東の八千穂高原側の方がまだ残っていました)

八千穂高原付近のシラカバの群生林

標高2000mこすと針葉樹のシラビソなどの針葉樹帯に、その下がから松など紅葉がみられる(麦草峠近く、31日)

諏訪南インター付近からの八ヶ岳連峰(31日)
清里近く、周遊道路付近(天気が悪く、写真写りももう一歩ですが、30日)
麦草峠の茅野側、から松の紅葉(多くの落葉、東の八千穂高原側の方がまだ残っていました)
八千穂高原付近のシラカバの群生林
標高2000mこすと針葉樹のシラビソなどの針葉樹帯に、その下がから松など紅葉がみられる(麦草峠近く、31日)
2011年10月28日
立石稲荷付近の里山つくり・県民大作戦

23日「森づくり県民大作戦・森の再生事業」のいっかんとして活動している「NPO里山どんぐりの会」の活動を見学にいきました。場所は市民病院の東、立石稲荷付近の山でした。

間伐した森(左)としていない森(右)
100年前鉄砲水による被害が生じたためつくられた石垣(谷川の両岸と底を石で)里山づくりで間伐したところ、この石垣の存在がわかったそうです。

上の八幡山までのハイキングコースに案内板をたてました。

立石稲荷には大きな石が(約2000万年前にたい積した地層の一部)
間伐した森(左)としていない森(右)
100年前鉄砲水による被害が生じたためつくられた石垣(谷川の両岸と底を石で)里山づくりで間伐したところ、この石垣の存在がわかったそうです。
上の八幡山までのハイキングコースに案内板をたてました。
立石稲荷には大きな石が(約2000万年前にたい積した地層の一部)
2011年10月25日
カリオーペ合唱団

現在島田市には「グッドフェロー」や「島田ファミリー」などが合唱団体として意欲的に活動しています。50年前ごろは「カリオーペ合唱団」という団体があり演奏会を開いていました。そのころのプログラムを紹介します。
第4回定期演奏会(1967.11.25、市民会館)団のあゆみに”昭和34年6月発会。カリオーペとはギリシャの女神で美声の持ち主”と書かれています。

創立10周年記念演奏会(第6回、1970.2.21、市民会館) 指揮者:浅野武、 副指揮者:山岸秀綺、平川旦 伴奏者:藁科由子 の方々の名前がありました。「第1部」ロマン派の香り、 「第2部」思い出、 「第3部」ポピュラーをうたう、 「第4部」合唱の喜び

浅野武海外留学壮行「第9回定期演奏会」(1974.6.29,市民会館)浅野先生が新卒で高校教師になった年に私は音楽を教わり、吹奏楽(音楽)部の演奏会でフィンディアの指揮をしていただきました。第9回定期演奏会プログラムには高田三郎さんの文も掲載されておりました。
第4回定期演奏会(1967.11.25、市民会館)団のあゆみに”昭和34年6月発会。カリオーペとはギリシャの女神で美声の持ち主”と書かれています。
創立10周年記念演奏会(第6回、1970.2.21、市民会館) 指揮者:浅野武、 副指揮者:山岸秀綺、平川旦 伴奏者:藁科由子 の方々の名前がありました。「第1部」ロマン派の香り、 「第2部」思い出、 「第3部」ポピュラーをうたう、 「第4部」合唱の喜び
浅野武海外留学壮行「第9回定期演奏会」(1974.6.29,市民会館)浅野先生が新卒で高校教師になった年に私は音楽を教わり、吹奏楽(音楽)部の演奏会でフィンディアの指揮をしていただきました。第9回定期演奏会プログラムには高田三郎さんの文も掲載されておりました。
2011年10月24日
グッドフェロー第6回定期演奏会

昨日の午後、おおるりホールでグッドフェローの定期演奏会があったので初めて聴きに行きました。4部構成、それぞれにテーマというか演奏者が訴えたいことが盛り込まれており素晴らしい企画の演奏会でした。
メンバー30数名の演奏

現メンバーではなくグッドフェローシニアの会員の演奏(このシステムもユニーク)

第4部・アニメソングメドレーはお客様といっしょに

アンコール、お疲れ様でした
メンバー30数名の演奏
現メンバーではなくグッドフェローシニアの会員の演奏(このシステムもユニーク)
第4部・アニメソングメドレーはお客様といっしょに
アンコール、お疲れ様でした
2011年10月23日
栃山川の道祖神

栃山川沿いを散策していると所々で道祖神の祠を見かけました。
久市橋の少し上流、

カラスと水鳥の休養地、

島田市と藤枝市の境界付近の上流で東光寺川と合流します。

川沿いのを散策する人、犬と散歩をしている人に出会いました。六合から藤枝、焼津と流れていく栃山川沿いの散策みなさんもいかが。
久市橋の少し上流、
カラスと水鳥の休養地、
島田市と藤枝市の境界付近の上流で東光寺川と合流します。
川沿いのを散策する人、犬と散歩をしている人に出会いました。六合から藤枝、焼津と流れていく栃山川沿いの散策みなさんもいかが。
2011年10月22日
栃山川のコスモス、今が見ごろ

1昨日栃山川沿いを散策しました。藤枝明誠高校の少し下流側にコスモスの群生した場所がありました。雨で残念ですが今日・明日はまだ大丈夫だと思います。


明誠の上流、藤枝特別支援学校の横にもきれいな花が咲いていました。
明誠の上流、藤枝特別支援学校の横にもきれいな花が咲いていました。
2011年10月21日
1989年島響リッチモンド演奏旅行

島田交響吹奏楽団は創立20周年を記念して、89年8月リッチモンドへ演奏旅行に行き私も団員として参加しました。リッチモンドの町中のモールや市の関係使節での演奏のほか、サンフランシスコのゴールデンゲート近くの野外ステージでも演奏しました。
リッチモンド市内モールでの演奏

ゴールデンゲートブリッジと公園の野外演奏会場


演奏旅行から帰国後の10月中旬にこの付近で大地震が起き、ベイブリッジや高速道路の橋桁などがつぶれたり、私たちがよったオークランドの楽器店の倉庫が倒壊したことをテレビ新聞で知り驚きました。
リッチモンド市内モールでの演奏
ゴールデンゲートブリッジと公園の野外演奏会場
演奏旅行から帰国後の10月中旬にこの付近で大地震が起き、ベイブリッジや高速道路の橋桁などがつぶれたり、私たちがよったオークランドの楽器店の倉庫が倒壊したことをテレビ新聞で知り驚きました。
2011年10月20日
1976年リッチモンド初訪問

75年12月から77年1月にかけて20日ほどアメリカ西海岸ホームステイ旅行に参加しました。最後のホームステイはリッチモンドの近くのピノールという町だったのでリッチモンドの市役所に行き、中を見学させてもらいました。昔のことで記憶もあやふやですが、ある部屋のモニターには町の交差点が映し出され緊急時とか事故の対応をしており驚いたこと、地震(防災対策)関する厚い本をいただいたことが印象に強く残りました。
自動車社会ですが、リッチモンドからサンフランシスコの中心へはバートという地下鉄のような電車が走り便利でした(35年前の写真です)。

この時手にしたサンフランシスコ湾周辺の地質図、中央右の青い部分がシスコの湾、左の青い部分が太平洋、湾と太平洋をつなぐくびれた部分がゴールデンゲートブリッジ、リッチモンドはこの地図の中央から右上方向にあります。なお何本もある赤い線は活断層(この付近は日本と同じように地震がよく起きます)。

自動車社会ですが、リッチモンドからサンフランシスコの中心へはバートという地下鉄のような電車が走り便利でした(35年前の写真です)。
この時手にしたサンフランシスコ湾周辺の地質図、中央右の青い部分がシスコの湾、左の青い部分が太平洋、湾と太平洋をつなぐくびれた部分がゴールデンゲートブリッジ、リッチモンドはこの地図の中央から右上方向にあります。なお何本もある赤い線は活断層(この付近は日本と同じように地震がよく起きます)。
2011年10月19日
リッチモンド年提携50周年

島田市・リッチモンド市姉妹都市提携50周年記念事業のチラシを目にしました。リッチモンドと姉妹都市になったのは私がちょうど島田一中の生徒の時でした。リ市から最初の特別親善使節、ジョン・バー・コックス氏が一中に来られたとき、一年前に完成した稲荷町の校舎の図書室で歓迎会が行われました。何人かの生徒とともに私も英語でリ市の人たちに質問しました。譜面台においた下書きを見ながら棒読み英語だったこととコックス氏のことをフォックスにかけて”きつねさん”といったことがなつかしい思い出です。また中学で私に英語を教えてくださった藤田慶一先生と池ヶ谷雅宏先生がその後コックス氏の招きでリッモンドに研修にでかけ、リ市がより身近に感じました。
島田市史より

島田市史より
2011年10月17日
防災史に学ぶ(防災シンポ)

昨日も静岡で防災関係のシンポジウムが行われたようです。一昨日講演された武村雅之さんの「防災史に学ぶ」の内容をもう少し紹介します。

今回の東北大地震、仙台平野の各地に残る古文書には過去の津波についての記述があり、これをしっかり学んでおけば想定外ではなかった。科学モデルによる宮城沖ではM8以上は起きないという説を優先したのが間違えであった。古文書に書かれていることは聞き違えや誤記もあるが、昔の人々の大事なメッセージを聞き漏らしてはならない。
現在の地震防災は関東大震災の教訓の上に成りたっている。なのに震災後に出版された「震災予防調査会報告書」を都の防災責任者が全く眼にしていないということを知り心許なさを感じたことが以前あった。防災関係者は科学だけでなく歴史からも防災を学んでほしい。
今回の東北大地震、仙台平野の各地に残る古文書には過去の津波についての記述があり、これをしっかり学んでおけば想定外ではなかった。科学モデルによる宮城沖ではM8以上は起きないという説を優先したのが間違えであった。古文書に書かれていることは聞き違えや誤記もあるが、昔の人々の大事なメッセージを聞き漏らしてはならない。
現在の地震防災は関東大震災の教訓の上に成りたっている。なのに震災後に出版された「震災予防調査会報告書」を都の防災責任者が全く眼にしていないということを知り心許なさを感じたことが以前あった。防災関係者は科学だけでなく歴史からも防災を学んでほしい。